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旭日章受章 猪瀬昇一さんに聞く・日本の鞄 -前編-

旭日章受章 猪瀬昇一さんに聞く・日本の鞄 -前編-

かばんメーカー「株式会社猪瀬」の会長を務める猪瀬昇一さんが、令和2年春の叙勲において、旭日小綬章を受章されました。平成19年10月から平成24年5月までの長きに渡り、日本鞄協会理事長を務められ、また鞄職人の育成や日本鞄ハンドバッグ協会設立など、さまざまな事業を通じて、業界の発展に尽力した功績を評価されての受章となりました。

日本製の鞄づくりにこだわり続け、技術を磨いてきた株式会社猪瀬。今なお多くの若手職人がこの門をくぐり、新しい製品を生みだしチャレンジを続けています。

今回は、猪瀬会長に「日本でのかばんづくり」について、また「これからものづくりをする人に伝えたいこと」などをお聞きしました。

1 戦後復興とかばん作り

この度は旭日小綬章の受章誠におめでとうございます。その時のお気持ちをお聞かせください。

猪瀬さん: こちらをいただいたのは昨年の4月でした。多くの皆さんにお祝いしていただき、大変喜ばしく思いました。改めて自分を育ててくれた鞄ハンドバッグ業界に感謝を述べると同時に、今後若手の人材が入りたいと思う魅力ある業界にできるよう、これからも務めたいと思いました。

改めて猪瀬さんのご経歴をお聞かせ願いますでしょうか。

猪瀬さん: 私は昭和22年、東京都葛飾区生まれです。家業のはじまりは、私の父 清五郎の兄である清四郎が起こした八王子の帽子屋から端を発します。

戦前に清四郎が亡くなってのち、父清五郎氏が帽子屋を引き継ぎます。昭和21年には葛飾区に移り住み、猪瀬清五郎商店としてかばんの製造販売を始めました。その翌年には、私が生まれます。

お父様がかばんの事業を始められた頃は、どんな時代だったのでしょうか。

猪瀬さん: 当時のかばん業界は、ちょうど戦後復興の槌音が響いている頃でしょうか。銀座ではタニザワさんがダレスバッグを販売し、豊岡ではファイバー製のかばんが席巻した時代とも重なります。父は独学でかばんづくりを始めたと聞いています。当時、かばんは高価で貴重だったので、みな修理して大切に使っていました。父はかばんの修理を請け負いながら、その“作り”を学んでいたようです。

その後の高度経済成長期、日本国内でも人の移動が活発化して出張や新婚旅行、実家に帰省する時など、特に大きなナイロンや革のボストンバッグが重宝されました。スーツケースがまだない時代でしたから、荷物を運ぶときに欠かせないものでした。

ご自宅に飾られている旭日小綬章。実際はかなり大きい

ご自宅に飾られている旭日小綬章。
実際はかなり大きい。

2 大卒後に財布メーカーへ

すぐにお父様の会社に入社されたのでしょうか?

猪瀬さん: 私は大学を卒業したあと、神田にあった老舗財布メーカーの株式会社三敬で、住み込みで2年間働くことになります。今はもうありませんが、当時は大変活気のある財布メーカーで、腕の良い職人も多く働いていました。まだ業界内に“企画”という発想がない頃、三敬には当時珍しい“財布の企画室”があったのを記憶しています。私自身、関西は大阪・京都、東京は横山町などの問屋周りや小売店の営業など、なんでもやりましたね。

猪瀬さんが、かばんだけでなく財布や革小物などのことまで分かるのは、そういったご経験があるからなのですね。

猪瀬さん: その時の経験が後になってずいぶん生きています。昭和30年代までは、ハンドバッグの小売りで頭角を現していた『イノウエ』などの専門店にも、メーカーが直接商品を持ち込んで営業していました。小売店から厳しいアドバイスを頂きながらも、直接お声を聞いてものづくりできたのは貴重だったように思います。

昭和40年代の後半からは、業界全体で効率を重視する傾向が高まってきたことで、小売りに営業をしていたメーカーは、もの作りに集中するようになりました。問屋へと商品を一括納品し、そこから問屋が小売店へと卸す、という現在の流れが生まれたのもこの時です。50年代以降は、かばん問屋の力が強まっていった時代でした。

インタビュー中の猪瀬昇一さん

インタビュー中の猪瀬昇一さん

3 “ボストンの猪瀬”と呼ばれるように 

財布メーカーの修行を終えられてからは?

猪瀬さん: 2年経って、父の元に戻ってかばんづくりを始めます。この時には、ボストンバッグだけでなく、学生かばん、ランドセル、ショルダー、リュックサックなど、幅広い製品を手掛けるようになっていました。革以外の布ものなども製造していましたよ。

今の猪瀬さんとは想像できないくらい、ラインナップが広かったのですね。

猪瀬さん: とにかく子供が多い時代なので、子供や学生ものは数多く手がけていましたね。またかばん作りに大きな転換をもたらしたのは、何と言ってもファスナーの登場でした。革かばんは錠前や金具、ボタンなどで留めるのが当たり前だった時代に、60年代から広がった『YKK』のファスナーは画期的な製品でした。ファスナーを国内で大量生産することが可能になり、ファッション業界が一斉にファスナーを使った製品を作りはじめた時でした。

ファスナーの歴史も古いんですね。現在は、かばんにはなくてはならない副資材だと思います。

猪瀬さん: 実はこの時に、真っ先にかばん協会が『ぜひファスナーを使ってみよう』と取り組みをスタートさせました。錠前のような重い金具を使わず、スムースに開閉できるためかばん作りには不可欠な素材になりましたね。そこから、あの“マジソンバッグ”などのヒットも生まれました。

あのかばん史に残るマジソンバッグですね。確かに、あれはファスナーがなければ生まれないデザインですね。

猪瀬さん: そうとも言えますね。この頃から私たちが得意のボストンバッグやソフトビジネスなどに、ファスナーを使った製品が数多く生まれます。『袋返し』という製法を用い、丈夫で軽く、ふっくらしたシルエットが特徴です。ボストンバッグは荷物をたくさん入れるため、糸の番手や素材などにもこだわって、壊れにくいということで非常によく売れました。当時は『ボストンの猪瀬』とも言われていましたよ。

猪瀬昇一さんに、かばん作りの半生を語っていただきました。インタビューの前編は以上です。後編に続きます、お楽しみに。