Bag
袋物参考館 PRINCESS GALLERY
(株式会社プリンセストラヤ)
<世界のバッグ・袋物の歴史を伝える企業ミュージアム> -後編-
前回からハンドバッグを企画・製造する、株式会社プリンセストラヤの「袋物参考館」をご紹介しております。今回はいよいよ後編。
プリンセストラヤが創業以来、コツコツと収蔵してきた国内外のバッグの数々を、女性のファッションの流行の歴史とともに紐解いてみたいと思います。
※閲覧は要予約
1939年(昭和14年)に創業したプリンセストラヤは、当初はがま口や喫煙具などを製造するところから商いがスタートしました。戦争が終わった昭和20年代からは、徐々に海外製品のバッグなどをお手本に、ビーズ製やがま口タイプの袋物を作りはじめます。
「袋物参考館」には、プリンセストラヤが激動の昭和の時代に、婦人向けにどのようなバッグを作ってきたのか展示されています。時代をさかのぼり、女性たちのバッグの流行を見てみましょう。
1 昭和20年代後半の
「和装に合う口金バッグ」の時代
戦争が終わり、社会が徐々に復興していくなかで、20年代前半の女性のスタイルはまだ和装が中心でした。そこから少しずつ洋装へとシフトしていった時代です。
ショルダーもまだ短いものが多く、“手元にたずさえる”“抱える”といった持ち方が主流でした。また、統制下の日本では使われることのなかった「牛革」が復活してきました。新素材としてナイロンやビニールなどが開発されたことで、戦後復興とともに、洋服とバッグの一大創成期にもなりました。
ただ、この頃はまだバッグは富裕層のものであり、一般女性にとっては高嶺の花。プリンセストラヤでは、皮革が高価なために合成皮革を使った口金バッグや、和装向けのかっちりしたクラッチバッグなどを提案していました。
2昭和30年代は「日本と西洋のハイブリッド」の時代
洋装が広がったとはいえ、まだまだ和装でバッグ持つことも多かった時代は、両方のスタイルでも持てる、かっちりした口金付きのハンドバッグが引き続き人気となりました。
その当時のファッションのお手本は「映画」です。ちょうど岸恵子主役の「君の名は」が大ヒットしたのも、昭和30年代の終わり頃。銀幕のヒロインたちのまとう衣装や小物に、人気が集中しました。また、ハリウッド女優へのあこがれなどで、西欧の異国文化とのハイブリッドなバッグが次々と作られました。
当時は映画の中で、商品をさりげなく登場させる「タイアップ」という手法が取られ、映画会社も広告費を稼いでいたとのことです。
実はプリンセストラヤは、大ヒット映画「銀座の恋の物語」のワンシーンに登場しました。石原裕次郎扮する青年が、女性にバッグをプレゼントするために店で購入するシーンで使われたのが、プリンセストラヤのハンドバッグでした。その際には、店の外で「プリンセストラヤ」の社用車がひっきりなしに横切っていたとのことでした。これは改めて見てみたいですね。
そして1964年(昭和39年)には、いよいよ東京オリンピックが開催されます。この時に、外国人観光客がドッと訪日してきました。映画で見たドレス姿ではなく、ジーンズやTシャツ姿のカジュアルスタイルが新鮮に映ります。この頃に海外旅行もようやく解禁され、トラベルスタイルが登場します。
そして時を同じく昭和30年代には「YKKファスナー」が誕生し、バッグの開閉パーツとして応用されはじめました。
3 昭和40年代は
「音楽とファッションの融合」の時代
昭和42年にはイギリスから、モデルの「ツイッギー」が来日し、ミニスカートブームがやってきます。当時は若い世代だけでなく、30代や40代までもが膝上のミニスカートを履いたというほど一大ムーブメントになりました。
それに伴って、スタイリングのバランスを取るための「ショルダーバッグ」が台頭します。プリンセストラヤでも、斜め掛けではなく肩かけのショルダーバッグを数多く世に出してきました。
その後、ゴーゴー、モンキーダンス、グループサウンズなどの流行とともに、ファッション界では、マキシスカート、ホットパンツ、パンタロンと変化しながら多様化し、モッズ、ヒッピー、サイケデリックファッションなどが流行していきます。音楽とファッションとががっちりと結びついた時代と言えるでしょう。
それからベルボトムジーンズの流行で、ウエスタン調やフォークロア調が取り入れられ、バッグでもカジュアルバッグ、ショルダーバッグの流行が続きます。すでにバッグは口金ではなく、ファスナーでの開閉が当たり前になりました。この時代にオリジナルブランド「Dakota」が生まれます(昭和44年)。
4 昭和50年代は「女性の多様性」の時代
昭和45年(1970年)には、大阪で万国博覧会が開催されたことから、日本にも個人の国内旅行が定着します。万博終了後も国鉄(現JR)は、個人旅行を継続してもらうために「ディスカバー・ジャパンキャンペーン」を始めました。そこに登場したのが、「アンノン族」です。20代前後の大学生から若いOL層が、当時創刊された「anan」や「non-no」の旅行特集を片手に、一人旅や少人数で名所旧跡を巡っていました。
旅行の主役として、女性の存在が重視された最初のきっかけとなった現象です。ここから個人のトラベル需要が不可欠となりました。ビニール製の大きなボストンバッグやポシェットなどもこの頃に流行します。
同時に昭和50代(1980年~)は女性たちが働きに出て、経済力を持ち始めた時代です。ファッションも少しずつ、同質化から差別化へと進み、人とは違う何かを求める若者たちによって、「ニュートラ」「ハマトラ」「竹の子族」「パンク」「サーファー」などの、細分化された流行が生まれます。
加えて、数多くのインポート商品が「ブランド物」と呼ばれて流行していきました。消費者のモノを見る目がどんどん肥えていったのも、この時代からです。
さて、歴史のコーナーはここまでですが、プリンセストラヤはその時代に応じた様々な製品を生み出して来ました。バッグをどうファッションに取り入れ着こなすか、は今なお変わらないものづくりの軸になっています。
次のコーナーでは、珍しい素材のバッグが紹介されています。
5 珍しい素材のバッグたち
バッグに使われる素材は、牛革だけでなく、様々な動物の革が使われています。世界中には、地域の食文化に応じたさまざまな副産物としての皮革素材が生まれます。現在では「ワシントン条約(CITES)」にのっとり、絶滅するおそれのある野生動物は厳しく保護されています。
特に特徴的な素材として、時代の変遷とともに使われる部位が変化したクロコダイルが挙げられます。1960年代頃には、背中の凹凸部分を生かした「背ワニ」と呼ばれるバッグが流行しました。そのフォルム感から、たいへんインパクトある製品でした。しかし近年では、凹凸のないスムースな「腹ワニ」が主流になっています。
また珍しいところでは、魚類を使ったバッグが展示されています。「ウナギ」「ウツボ」「シャケ」「カエル」などの製品が見られるのは、ここならではだと思われます。なめしの技術で、様々な動物の皮を無駄にせず、製品化してきた作り手たちに、想いを馳せてみるのもよいかもしれません。
6 自由な発想で作る未来のバッグプロジェクト
また、未来に向けた人材育成の一環として、「プリンセスギャラリー・クリエイターズコレクション」というプロジェクトがあります。
社内のデザイナーたちに、自分が持ちたい未来のバッグをデザインしてもらい、職人たちと形にするというプロジェクトです。
実際に流通する製品とは一線を画し、「時代のリアル感を大切に、自由な発想であったらいいなと思うものを作る」という企画は、バッグという概念を越えて企画・作り手双方に、新しいチャレンジが生まれます。
職人たちも、これをどうしたら形にできるかを懸命に考えて、渾身の技術を投入します。そこにプリンセストラヤのものづくりに対する、新たな力が生まれると考えられました。ここには創業者の、美意識と感性を磨いてほしいという想いが込められています。
2009年のプロジェクトが最後でしたが、この時に培ったチャレンジが現在に繋がっていると、ここに集ったユニークなバッグたちを見て実感します。
ハンドバッグひとつから、時代が垣間見える展示です。今でもデザインのヒントを得るために、社内デザイナーは時折足を運ぶとのこと。女性たちのバッグに求めるものは、いつの時代も変わらないのかもしれません。ぜひ一度、足を運ばれてみてはいかがでしょうか。
以上、「袋物参考館 PRINCESS GALLERY」の収蔵品から見た、日本と世界のハンドバッグの歴史でした。