Bag
鞄の街 豊岡の歴史
奈良時代から始まる柳細工を起源とし、千年の伝統をもつ産地、鞄の街 豊岡。伝統技術と流通経路を基盤に、さまざまな取り組みに挑戦。ものづくりに磨きをかける、国内最大の鞄産地の歩みとは?
鞄づくりの成り立ち
712年の「古事記」に新羅王子とされる天日槍命(アメノヒボコ)によって、柳細工の技術が伝えられたと書かれています。神話の時代まで遡るのですが、豊岡の鞄のルーツは、その柳細工で作られたカゴだといわれています。
奈良時代には豊岡でつくられた「柳筥」は正倉院上納されているそうです。1473年の「応仁記」には、柳行李が商品として盛んに売買されていた記述があり、おそらくこの時期から、地場産業として家内手工業的な杞柳産業が発展したことが予想されます。
江戸時代には豊岡藩の独占取扱品として、柳行李の生産が盛んに。1668年、京極伊勢守高盛が丹後国から豊岡に移封され、柳の栽培並びに製造販売に力を注ぎ、土地の産業として奨励したのが始まりです。
明治14年、八木長衛門が大2会内国勧業博覧会に2尺3入子、3本革バンド締めの「行李鞄」を創作出品したと伝えられており、また明治35年の第5回内国勧業博覧会出典目録には遠藤嘉吉朗の「旅行鞄」が見られます。この3本革バンド締めの柳行李は、外観はトランクと同じでしたが、トランクと呼ばれずに柳行李と呼ばれていました。
このことは、これが従来の杞柳製品の改良品で、一般杞柳製品技術が応用されたものであり、また、柳行李で名高い豊岡で作られたことが、鞄と呼ばれず行李と呼ばれた原因といわれています。交通手段の発達にともなう内外旅行者の増加により、携帯運搬用の容器の需要が起こり、それに応じるさまざまな工夫発明がなされました。
明治39年、服部清三郎の「鞄型柳行李」、明治42年、宇川安蔵のドイツ製品を模倣した「バスケット籠」等の創案が相次ぎました。「バスケット籠」は底編みをし、立てりを差し、引き籐を巻き上げて合い口を付けてまとめた籠と伝えられています。
革鞄製造がはじまり、日本最大の産地へ
明治後期に登場した携帯に便利な鞄型、バスケット型の小型篭の多くは輸出されました。大正6年、革バンドやアテ革など革附属をつくって行李メーカーに販売していた奥田平治が、従来の三本革バンド締めの柳行李にウルシを塗り、錠前を取り付けた「新型鞄」を創案。これが豊岡から鞄として売り出した最初のものであるといわれています。
また奥田平治の片腕として働いていた植村賢輔は鞄生産へ自信を持ち、まもなく皮革製品に着目した箱型鞄の製造を開始。大正10年、松本孝のバスケット型柳行李鞄が出現しました。
信玄袋にとって代わり、「大正バスケット」の名で、実用的でハイカラな携帯用旅行具として大流行。 さらに奥田平治は、当初は電器絶縁物などに開発されていたヴァルカナイズ・ファイバー(木綿またはパルプ繊維を硬化させた堅紙)靴滑り(中敷き)を東京で手に入れて、これを鞄の材料につかえないかと考え遠藤嘉吉郎の援助でファイバーシートを入手。
最初は柳行李の椽掛けや筆箱の製造で試し昭和3年頃、松本孝の協力を得てファイバー鞄の商品化に成功。杞柳製品の全国的な販売網に乗って販売され、昭和11年に開催されたベルリンオリンピックの選手団の公式アイテムとして、豊岡の鞄が採用されました。
昭和28年、従来のスーツケースの胴枠を改造し、外型崩れ防止にピアノ線を使用した鞄が生まれました。軽くて強靭であることなど、これまでの欠陥を補っていたので他商品を圧倒。これを取り入れ昭和31年7月にオープン協会豊岡支部を結成し、オープンケースの生産に注力。また、輸出もアメリカを中心に急激な伸びを見せ、鞄産業は大きく飛躍しました。
鞄産業は「岩戸景気」(昭和33年~昭和36年)を背景に昭和35年には昭和30年にくらべ、工業数約2倍、生産高約8倍に躍進。輸出は昭和43年の最盛期までに年率50%の近い飛躍的な伸びを示しました。
昭和39年頃になると、蓋に2本、底に1本ファスナーがあり、容量に応じて3通りの厚みに調整できる、通勤及び旅行かばん「エレガントケース」が大ヒット。このため、市外にも外注加工先が増え、東は福井県小浜市、西は鳥取県日野郡、南は小野市周辺まで拡大。日本国内における鞄の四大産地の一翼を担うようになりました。
地域ブランド「豊岡鞄」の始動
昭和40年代の経済の激変により鞄業界の構造改善の必要性が一段と高まり、多くの取り組みを推進。協同組合豊岡鞄工業センターを設立し、年2回の定期的な合同見本市の開催など鞄産業の集積地というメリットを活かしたさまざまな事業を実施しました。
昭和49年8月、「特産業統計調査」が豊岡鞄協会と豊岡市の共同ではじめて実施。
昭和51年4月から「中小企業近代化促進法」に基づく豊岡鞄産地構造改善の五ヶ年事業に着手し、新商品技術の開発を初めとする振興事業を促進。さらに、昭和54年7月「産地中小企業対策臨時措置法」に基づく鞄産業の近代化への五ヶ年事業を鞄工業組合、鞄卸商業組合、鞄材料商協同組合が結束して推し進めました。
平成3年3月、兵庫県商工部が「豊岡鞄産地振興ビジョン」策定し、デザイン・ファッションの自己表現化、新技術、設備への対応、販売戦略の具体的方策が示され、ファッション化と高級化にポイントを置いた商品開発へ転換します。
平成18年11月10日に特許庁に地域団体商標として最初に認定された「豊岡鞄」。兵庫県鞄工業組合の登録商標です。ブランドコンセプト「豊岡で育まれ ものづくりの長い歴史と職人の技術が生んだ 優れた鞄を消費者に安心して使って頂く」を掲げ展開。
豊岡鞄の製造企業は、必ず兵庫県鞄工業組合員であり、ブランドコンセプトを守るというマニフェストに署名・捺印して企業として宣誓すること、そしてその製品が豊岡鞄認定審査を受けて合格することです。
「豊岡鞄」地域ブランドは、兵庫県鞄工業組合と各企業、そして地域の共有財産。 一つの企業だけで事業を推進するのではなく、地域の共有財産として兵庫県鞄工業組合を中心にして「豊岡鞄」地域ブランドを育てることで、その価値を高めています。
豊岡の魅力を発信するカバンストリート
「地場の産業と商店街の活性化」を目的として、豊岡市の地場産業である鞄産業と商店街が協力し「カバンストリート」が平成17年3月に発足。現在、27店舗(うち14店舗が鞄関連)が営業しています。鞄の販売はもちろん、修理やクリーニングをメインとする店舗もあり、さまざまなスタイルで豊岡鞄の魅力を紹介。観光スポットとしても人気です。
非対面・非接触のニーズを先取りし、バッグの自動販売機を設置。テレビや雑誌など幅広くメディアで紹介され話題となっています。イベントやマルシェなども積極的に開催。現在は、コロナウイルス感染対策のため休止されていますが、イベントの再開に向けてバッグファン、レザーファンの期待が寄せられています。
次世代のつくり手を養成
豊岡市や兵庫県鞄工業組合の協力の下、豊岡まちづくり株式会社が、鞄のエキスパートを養成する専門校「Toyooka Kaban Artisan School(トヨオカ カバン アルチザン スクール)」を運営しています。国内最大の鞄の産地で、1枚のラフスケッチから一人で1本の鞄を製造できる職人を熟練の職人たちが丁寧に始動。多くのつくり手たちが鞄業界へはばたきました。
さらには、離職者等に対して、就職に必要な知識、技術を付与するための訓練を兵庫県立但馬技術大学校からの委託により豊岡K-site合同会社鞄縫製者トレーニングセンターが行うプログラム、鞄縫製養成コースを開講。鞄縫製に特化した現場で役立つ基礎・応用技術、現場目線での必要技術や働く姿勢など現実に近い環境で学んでいます。
進化し続ける、豊岡のものづくり
豊岡を拠点とするブランドがジャパンレザーアワードをはじめ、国内外のコンペティション、コンテストに入賞し話題に。東京・丸の内のフラッグシップショップ、ポップアップイベント、オンライン展示会、キャンペーンのほか、一部のメーカーでは、オンラインワークショップ(革小物づくり)を行い大好評です。
新プロジェクト「豊岡小物」では、SDGsを意識した取り組みもスタート。残革を使い切るものづくりに支持が寄せられています。常に鞄の新しい在り方を模索し、そのときどきの最適解を提示。伝統を大切にしながら、革新を続けているのは歴史に裏付けられた、豊岡だからこそ可能なのです。