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日本人と靴
弥生時代に田下駄がつくられて以来、およそ2000年間、庶民は下駄や草鞋、草履などの鼻緒式のはきものをはいてきた。だが一方では、縄文時代の北方系の皮グツや、古墳時代から平安時代に大陸から伝わった各種のクツなども、日本に存続している──。
西欧の文化においては、裸足というのは、裸身と同じように、非文化・反文化の記号的表現であった。
私たちの場合は裸足というのが価値を持っているのです。-----(履物を)脱いで神と直結しないといけないというのが、私たちの神様に通じる気持ちですから、裸足というのがいちばん尊い形になります。
日本では室内と室外の世界は、はき物のあるなしできっぱりと区別される。
木や草をつかった植物性の下駄、草履、それに対して皮革をつかった靴、それは米作農業国日本と牧畜地帯ヨーロッパとの対比を示す。
一八七○年(明治三年)三月十五日、佐倉藩士であった西村勝三が、東京の築地入舟町に日本ではじめて本格的な製靴工場である「伊勢勝造靴場」を開きます。
幕末維新期の人々が、西洋の靴と出会った時、どのようなところに戸惑いを感じたか。それはおそらく足をすっぽり包む革靴の窮屈さと、靴を脱がずに建物の中に入る風習にたいしてであっただろう。
明治・大正期は一部の人々の間にハイカラスタイルが流行したものの、国民の大部分は、げた、ぞうりの生活であった。
洋間付き文化住宅の建設や生活様式の洋風化。背広に革靴スタイルという勤労者の洋装化。女性の社会進出――1923(大正12)年に起こった関東大震災は靴の普及に大きな影響を与えたといえる。
戦後の昭和20年代、靴はきわめて高価な物だった。-----だから、新しい靴はめったに買えない。古靴を買ったりもしたが、あれは質屋に行く時よりもっと惨めな気持ちになるものである。新しい靴は宝物であった。
靴が貴重品だったためだろう、このころ(昭和20年代)は靴泥棒というものがいた。うっかり玄関を開けておくと靴を盗まれてしまう。
昭和25年、モイラ・シアラー主演のバレエ映画「赤い靴」、有楽座で32万人の観客を動員。銀座通りの靴屋には赤い靴が並んで、足元に関心が集まるようになった。
日本女性の多くが、本当に靴を履き始めたのは、第二次世界大戦後、日本の敗戦以後-----靴を履くことによって、女性のめざましい活躍が今日みられるのです。
ブーツが広くタウンウエアとして女性にはかれたということは、ミニスカートにもまして、これはファッション革命、風俗革命だった。
1977(昭和52)年、健康ブーム、マラソンブームの影響でトレーニングウエアがよく売れ、ちょっと出の外出着として市民権を獲得し始めた。足まわりもバスケット、テニス、ジョギング用のスポーツシューズがスニーカーとして街中に進出した。
靴が一般化した大正時代からは、靴フェチも急に目立ってくるが、ではそれ以前、下駄やゾウリに対するフェチが同じような比率で存在したかといえば、両者の間には歴然たる差が認められる。――靴が社会に普及すると共に、日本人のセックス心理も一大変革がもたらされたわけである。
素足の美しさは日本人特有のものかもしれない。-----日本人が素足や裸足の感覚を失ったのは、高度成長以後のことである。
日本列島の自然環境は住民たちに泥濘を歩む「すり足」――すりだすように足を前に進め、体重をできるだけ足裏全体に“散らす”という歩行法――を要求した。
日本の履物文化の基本が、下駄とか草履とか、そういう「つっかけ」式の形式にある-----それがビジネスシューズにスリッポンが多く、なおかつ紐式の靴でも紐は結んだままで、靴ベラを使って事実上のスリッポンのように履く人が多い理由であろう。
たとえば新幹線のグリーン車で靴を脱いで足休めに足を置いている人たち。これは男女とも落第。小金を持っているかも知れないが、品格のほどは絶望的に低い。
朝、玄関に光った靴が待っているのは、気持ちのよいものです。なにかすばらしい一日になりそうな予感さえします。輝きのある靴と汚れた靴とでは、どうも違った人生を歩むことになりそうに思う。
新しい履物(靴)を夜、履きはじめると凶、畳の上で履くのも凶。