シューワード玉手箱
足・素足・裸足
考えてみれば、人間が二本の足で、長い道のりであっても、立って歩くことができるというのは不思議なことである。これは、他の動物にはみられない、人間だけがはたすことができた生物革命である。
私たちはふつう、足で大地に立っていると思っているけれど、絶えずバランスをとり続けることによって直立していられるのだということは、明確にしておかなければならないであろう。----足を通して私たちは絶えず、大地との結びつきを保っている。
身体のなかでも足への愛着尽きせないのは、何よりも大地のぬくもりの感触をいちばんに残すゆえだけれども、さらに抜きんでて、筋肉の動き細やかに浮き立つ、かたち妙なる部分だからである。
ヒトの健康な足は「自然が作り上げた芸術としての形」をしている。その複雑な解剖学的構造は、平均1日に1万5000歩も歩く人の体の中で足が果たすべき数々の機能的役割を映し出すものである。
足には片足26個、両足で52個の骨があり、全身206個の骨のうち4分の1が集まっている。また、19の筋肉と腱、107の靭帯が集中している。足が全身を支え、歩行運動を行う支持運動器であると同時に「第二の心臓」と言われるように循環器として機能しているためだ。
ヒトの歩き方は人体の諸機能のうちで最も複雑なものであるという。事実、全身650の筋肉の約半分が「単一の」歩行動作に関係しており、驚くほど多くの筋肉の協働を必要としているのである。
この長大な流れを通して、人びとは、ほんの最近まで裸足(跣、跣足、徒跣とも書く)であった。膚のままの足で、肌足の意味である。
英語には裸足と素足の区別がない。西洋人は屋内で履物をぬぐ習慣がないから、両者を区別する必要がないのである。
素足は履物をはいている、あるいは履物を着脱することを前提としている裸の足であるのに対して、裸足は足の皮膚を履物で覆うことなく、地上に文字通りの裸の足で立っているという意味である。
外国では素足を狂愛するものよりも靴や靴下に心酔するもののほうがはるかに多い。その理由の一つは、外国の風習では幼いころにも素足をみるような機会が少ないので、はきものの印象のほうが強いからだろう。
僕の生命とお冨美さんの踵と、此の世の中で何方が貴いかと云えば、僕は言下に後者の方が貴いと答えます。お冨美さんの踵の為めなら、僕は喜んで死んで見せます。
裸足と、裸足にハイヒールをはく姿が、誰よりも似合っていたエヴァ・ガードナー。「裸足の伯爵夫人」の彼女の姿が忘れられない。のびのびとした健康的な素足と赤いペディキュア。
細い靴を履き続けることによって、小指の爪が死亡状態であったり、足の裏にタコがあったり。女性の足から、虐待の痕を見つけるのは、容易なのです。特に、おしゃれに対する意欲が強い人ほど、おしゃれな靴を履いて足に忍耐を強いますから、足が痛めつけられている度合いは強い。
學校生活のなかでも、子どもたちが廊下をはだしで歩いたり、運動場をはだしで走りまわったりすることはなくなった。子どものあしを発育の面から考えるより、安全管理だけを意識してやってきたためである。
何故、足指を伸ばすと体中が元気になるのか?
足指が伸びると、まっすぐに立てるからです。
ゆがみがなく、まっすぐに立てれば、体に痛みは出ません。
足には、未来の自分の健康状態が先に表れるといわれています。足もみを毎日することで、「昨日まで痛くなかった場所が、今日は痛い」「ずっと痛かった場所が痛くなくなった」など、自分の体調の変化を、痛みによって知ることができます。
いまや素足にかわって「生足」の時代になったらしい。----テレビ時代の若者にとっては「素」より「生」の方が実感が持てるのだろう。しかし、旧世代には----それこそなまなますぎる。まして、「ナマ足」などとカタカナで書かれると、どんなに若い娘の足でも敬遠したくなる。