靴歴史エピソード - 人と靴と出来事と -
< 産業創設期 > 編
幕末動乱から文明開化へ―――
時代の夜明けと共に日本の靴産業は誕生する。最先端のビジネスであり、進取の気性に富む若者が多く参入し、新たな産業の創設に挑戦していった。
ペリー(黒船)来航
ペリー来航の図。
銃と軍靴の兵士vs.刀と弓と草履の武士が描かれている
1853、54(嘉永6、7)年、アメリカ合衆国海軍提督ペリー来航。いわゆる黒船来航である。ペリーは江戸幕府に開国と和親条約の締結を迫り、ここから一気に明治維新、文明開化の流れが加速する。
そして、政府としては軍隊・軍備の強化、庶民としては新奇・流行への興味から軍(洋)装・軍(洋)靴への関心を高めていった。長崎などには、早々と西洋靴やカバンが入り始め販売業者も登場する。
靴を履く遣欧使節
最初の遺欧使節団の一行。
約1年をかけてフランス、イギリス、ロシアなど
7か国と外交交渉を行った
1861(文久元)年、江戸幕府はヨーロッパに初の遣欧使節団を送った。団員の武士は、西洋の靴を履くなど「神州の大恥辱なり」として約千足の軍用草鞋を持参した。
しかし、いざ目的地に到着して当地の風俗に接すると「わら細工は大国の恥なり」と、すべて海中に捨ててしまったという。次の65年の遣欧使節は初めから靴を履いて渡欧した。西欧への反発(攘夷)とあこがれ(文明開化)がうずまく幕末を象徴するかのようなエピソードである。
伊勢勝造靴場
図左:初期の靴工場を描いた明治12年の錦絵
「諸工職業競/靴製造場の図」(稲川實氏所蔵)
図右:伊勢勝造靴場の商品カタログ(稲川實氏所蔵)
1870(明治3)年3月15日、旧佐倉藩士で後に明治の実業家となる西村勝三が築地入舟町(東京都中央区入船3)に我が国初めての靴メーカー、伊勢勝造靴場を開設した。時の陸軍大臣大村益次郎が軍備の近代化を図るため、銃器販売業者として活躍していた西村に軍靴の製造を勧め、2年余りの準備期間を経て開業にこぎつけた。外国人技師を雇い、材料や道具をヨーロッパから取り寄せ、旧士族の10代の若者などを集め、明治政府からの軍靴製造の要望に応えた。が、当初は不良品続出、採算割れ覚悟の船出だったという。
この3月15日が1932(昭和7)年、東京靴同業組合によって「靴の記念日」として制定され今日に至っている。
明治3年と靴産業
弾直樹が浅草に開設した「弾製靴所」の図。
(稲川實氏所蔵)
亀岡町は現在の今戸1、2丁目
伊勢勝造靴場が開設された明治3年には、紀州和歌山藩が同藩の洋式軍隊10万人の軍靴を調達するために「西洋沓仕立方並鞣革製作伝習所」の開設準備を本格化、翌4年に設立している。同じ頃、関東一円の革鞣し業を仕切ってきた弾直樹(13代目矢野弾左衛門)も軍靴製造の準備を進め、同年10月には試作品を製作、翌4年に北区滝野川で製造をスタート、明治5年には地元ともいえる浅草・橋場に移り、靴の街・浅草の基盤を作っていった。
佐倉藩と靴産業
図左:佐倉相済社があった跡(大塚製靴百年史より)
図右:相済社跡には、1984年に西村勝三の銅像が建てられた
明治維新により幕藩体制が崩れると、武士階級とくに下級武士はたちまち生活に窮し、これを救うために各藩では新たな産業を興すなどの手を尽くした。千葉県北部の天領を治めていた佐倉藩では靴や織物を製造する「佐倉相済社」を1869(明治2)年に開設、旧藩士の子弟に新しい職業を授けた。これを主導したのが西村勝三の兄で藩政を担っていた西村茂樹。勝三と助け合い、人材育成などに力を入れた。この相済社から大塚商店(大塚製靴)を興した大塚岩次郎などが輩出される。
また、1877(明治10)年、経営に苦しむ西村勝三の伊勢勝に旧佐倉藩主の堀田家が資金援助し、依田西村組として再出発。84年には佐倉藩にちなみ櫻組と改称、やがて1907(明治40)年には現リーガルコーポレーションの前身となる日本製靴へと発展していく。
鹿鳴館と西洋ファッション
鹿鳴館全景と舞踏会の図。
社交とハイカラ文化の発信源であった
1883(明治16)年、西欧の外交官などを接待する施設として建てられた鹿鳴館は政府高官や貴族などが集う一大社交場であった。当時の最先端ファッションのフロックコートやバッスルドレスに身を包んだ男女がダンスなどを楽しんだ。当然、足元はドレスシューズやボタンブーツ、そのオーダーが最先端職業に取り組む靴職人・メーカーの技術競争を後押ししたと想像される。鹿鳴館(現在の帝国ホテル横に建設)にほど近い銀座は、この頃、ガス灯と煉瓦建築のハイカラな繁華街として発展、洋服、靴、カバン、煙草、カフェなどの最新ショップが軒を連ねていた。
博覧会出品と靴の輸出
大塚製靴に残されている博覧会での受賞メダル(「大塚製靴百年史」より)
明治初期の靴産業はベンチャービジネスであり、未成熟だが若さと情熱にあふれ、チャレンジ精神に富んでいた。
1978(明治10)年の第1回内国勧業博覧会(産業振興見本市)から連続して、大塚商店(大塚製靴)を筆頭とする靴メーカーはその自信作を出品、数多くの受賞をしてきた。特に大塚は84年のロンドン万国衛生博(銀杯受賞)、89年のパリ万博(銀杯受賞)などリーダー的役割を果たし活躍、1900年の大パリ万博への日本メーカー大挙出展を導いた。
一方、1987(明治20)年、櫻組がドイツに国産革、ロシアに国産靴を輸出。これをきっかけにメーカー全体で90年代にはロシア、支那、東南アジアに1万足の輸出、1900年代には20万足を超える靴輸出を果たすまでになった。
在米日本人靴工同盟会
日本靴工同盟会の10周年記念写真(靴産業百年史より)
19世紀末の世界最大の靴製造国はアメリカであり、アメリカ最大の産業は靴産業だった。第18代グラント大統領(在位1869~77年)は製革業者の息子であり、副大統領のヘンリー・ウイルソン(在位1873~75年)は靴メーカーということで、皮革産業内閣が誕生するほどであった。
そんなアメリカに1882年、若き靴工の田中新三が出稼ぎ修行に出る。その後も渡米する靴工は後を絶たず1893(明治26)年には「在米日本靴工同盟会」を組織するほどだった。それだけ熱心であり、技術進歩も早く、半面で差別・迫害も激しかったためである。この渡米靴工たちが、その後の日本の製靴技術や靴工組合(労働運動)へも大きな影響を与えていく。
お雇い外国人靴師
レ・マルシャンと銀座ショップのスケッチ画
(「靴産業百年史」より)
明治初期、文明開化の助っ人として様々な分野で外国人の技術者や教師が招聘された。靴産業でも同様で、和歌山藩ではプロシャ(ドイツ)人のハイトケンペルやヴァルテ、伊勢勝には清国から藩浩、オランダ人レ・マルシャン、プロシャのボスケ、弾製靴所では3人の清国人やアメリカ人チアルレス(チャールス)・ヘニンゲルなどが技術を伝習した。中でも、レ・マルシャンは幕末に来日、横浜に製靴店を開くなど意欲的であり技術も高く、指導者としても“靴業の恩人”と称えられるほど献身的で有能であった。1873(明治6)年、日本女性との結婚を機に帰化し、後年は銀座などに靴店を構え紳士淑女の顧客を引き付けた。息子の礒村半次郎も大正期に名人靴職人として活躍した。