靴歴史エピソード - 人と靴と出来事と -
< 軍需産業期/明治~大正 > 編
近代国家の建設を目指してひたむきに突き進む明治政府にとって、産業の振興と軍備の強化は必要不可欠なテーマ。
そこに靴産業は否応なく取り込まれていく。
軍需の光と影
明治時代の陸軍軍靴の変遷(「STEPS 日本製靴の歩み」より)
富国強兵は明治時代の一大スローガン。軍靴などの軍需品を生み出す製革・製靴産業の強化・発展は、明治政府にとって欠かせないものであった。そして、1877(明治10)年の西南戦争、94~95年の日清戦争、1904~05年の日露戦争、1914~18年の第1次世界大戦と次々に戦争が起こる。
戦争のたびに軍需景気があり、需要増大を背景に手工製から機械製へ、大型機械による量産体制へと産業は発展拡大していった。ただ、急激な増産は過剰投資と不良品の発生に繋がりがちであり、戦後の景気停滞と共に在庫の山と企業縮小、そして労使紛争などに苦しめられるのが常であった。他の産業に先んじて労働組合が組織されもした。そんな流れの中で、軍靴製造の有力メーカーでは企業合併や系列化が進み、一方で、徐々に広がってきた一般市民の洋装に合わせた民需の靴にシフトする企業も登場する。
製靴機械の輸入
図左:明治時代の製靴機械
(「STEPS 日本製靴の歩み」より)
図右:左が20世紀初頭の釣込機械(イギリス製)、
右が掬縫機(ドイツ製)「大塚製靴百年史」より
欧米の製靴産業は産業革命とともに興り、19世紀半ばには機械化された。日本では明治の初期に平台ミシンが輸入され、1880年代に八方ミシンをドイツから、90年代にシンガーミシンをアメリカから輸入するなど、製甲作業用などの小型機械の導入にとどまっていた。大量生産を可能にする大型の底付け機械の導入(輸入)は1900年以降、20世紀に入ってからだった。
1902(明治35)年 陸軍被服廠、日本製靴がアリアンズ底縫機をドイツより輸入
1908(明治41)年 陸軍被服廠がグッドイヤー式製靴機械をアメリカより輸入
1914(大正2)年 日本製靴がグッドイヤー式製靴機械をアメリカより輸入
以下、1917年・東京製靴、1919年・神戸屋製靴、1920年・桜組工業、1921年・亜細亜製靴、1922年・大塚商店、1924年・千代田機械製靴、スタンダード靴がそれぞれグッドイヤー式製靴機械を導入、主に軍靴需要の増大に応えていった。
日本製靴の誕生
大正時代初めの日本製靴(手前)と日本皮革(奥)
20世紀に入る頃、大国ロシアとの戦争の機運が高まり、国運をかけた戦いに向けた体制作りが急務となる。そこで陸軍省は、軍服や備品類を生産する被服廠の中に日産千足規模の直轄靴工場を開設する。そのグランドデザインを描いたのは靴業の祖・西村勝三で、さらに西村は、大量の軍靴を安定生産する体制を整えるべく、自らが率いる櫻組をはじめとする民間大手メーカーの合併を企図した。
1902(明治35)年12月、伊勢勝造靴場の後身である櫻組、弾直樹の流れを汲む東京製皮、大倉財閥が和歌山の皮革工場などを吸収合併した大倉組、大阪の大手製革製靴工場の福島合名(今宮製靴)、4社の製靴部門を統合して日本製靴が誕生する。以後、同社は1945年まで“国内最大の市場=陸軍”をほぼ独占し、産業をリードする企業として君臨していく。
そして、国家の要請を受け、時代の趨勢を読み、靴産業の誕生と産業再編を促す企業合併を成し遂げた西村勝三は、4社の皮革部門合併による日本皮革(ニッピ)誕生の同年、1907(明治40)年に71歳の生涯を終えた。
洋装の広がり
図左:東京女子高等師範学校の制服(明治23年)
図右:地方の高等女学校の卒業写真(明治40年頃)
明治の初期、宮中儀式の正装が洋装になり、警察官など官吏の制服が洋式となる。明治の中期、上流階級や公務員に洋装が広がり、東大や東京師範学校女子部などで洋服が制服化される。明治の後期、都市生活者が増え、百貨店が誕生し、洋服の仕立て屋も多くなる。
一方で、女子教員や女学生の洋装がたびたび禁止され、地方では洋装に対する偏見が根強かった。大正時代に行った東京・銀座での街頭調査でも、男性の洋装率は67%だが女性は全体3%、若い女性に限っても17%という結果だった(今和次郎「考現学採集」)。明治期は、一般庶民にとって洋装・洋靴はまだ身近な存在とは言い難かった。
トモエヤの悲運と不運
「軍靴を扱うのはいやだ」と父子二代にわたって民需にこだわり、明治の靴産業と靴市場に一大センセーションを起こした企業があった。父・相場真吉は1869(明治2)年に、弱冠20歳で“靴と鞄の一点張(専門店)”トモエヤを開業。欧風文化の広がりを見越して、銀座に店を出し、広告に力を入れるなどの努力工夫を重ね、明治中期には銀座・京橋などに5店舗を展開するほどの成功を収める。が、真吉は1900(明治33)年、風邪がもととなり51歳であっけなく亡くなってしまう。
跡を継いだ21歳の息子・達之助は、さらに革新的で、アメリカからマッケイ式製靴機械と技師を招き、銀座通り沿いにガラス張りの工場を建設、<丈夫で、安くて、安心の出来る機械靴。マッキンレイ靴>を大々的に売り出した。汽車に商品を陳列して地方を廻り販売する汽車博覧会を開くなど、話題づくりも派手で評判を呼ぶ。既成靴と注文靴の二面作戦も功を奏した。が、トモエヤは1907(明治40)年、日露戦争後の不況と後見人(親戚)の離反によりあっけなく倒産してしまう。
軍医総監・森林太郎
陸軍被服廠が翻訳刊行し軍各部に配布した冊子「足と靴」
森鴎外は夏目漱石と並ぶ明治の文豪だが、軍医・森林太郎としても軍医総監という最高位にまで上り詰めている。1880年代に5年間、ドイツに医学留学。帰国直後に行われた陸海軍合同演習時に靴が原因の足の故障があまりに多いことに驚き、近代戦の兵士にとって軍靴は必要不可欠としながらも、不具合な靴を履くことの弊害や足の故障の実際、平時の日本人にとって下駄・草履が合理的な履物であることを医学誌に記した。それ故か、陸軍は日清戦争時に兵士への慰問品として草鞋9万足の送付を承認している。
やがて日露戦争時には軍医部長、戦後の1907(明治40)年に軍医総監となる。その在任時の09年に陸軍各部に配布された冊子がある。陸軍経理研究会誌の付録「足と靴」がそれで、靴職人は足の構造や機能を知らず、木型に合わせた靴づくりに囚われていること、足の様々な故障と靴との関係など、果たして森林太郎がどこまで関与しているのかも含め、なかなかに興味深い内容だ。
ゴム靴・足袋・地下足袋
図左:明治末の足袋(アサヒシューズ提供)
図中央:日本初の地下足袋(アサヒシューズ提供)
図右:金栗足袋(玉名市歴史博物館)
ゴム織布、ゴム塗革を使った靴は明治の初期から輸入され、深ゴム靴、七つはぎブーツなどは履きやすい靴として愛用された。デザイン的に工夫した婦人靴や子供靴も作られたが、靴需要の主力が堅牢第一の軍靴のため、いわゆるゴム靴の本格的な登場・発展は加硫技術が発達した明治末から大正時代にかけてであった。
一方で、ゴム底を貼り付けた足袋が、ペスト流行に伴う裸足禁止令が出た1901(明治35)年の直後に登場。関東大震災があった1923(大正12)年前後には地下足袋が開発されるなど、日本独自のゴム履物が作られた。スポーツ分野でも、1912年のストックホルム五輪に出場した金栗四三は裸足足袋でマラソンを走りぬき、1920(大正9)年の第1回箱根駅伝では紐付きゴム底の金栗足袋を開発して学生たちに履かせたという。
関東大震災!
東京そして靴産業も壊滅的被害を受けた
関東大震災からの復興が新たな時代の幕開けに
1923(大正12)年9月1日に起こった関東大震災によって東京は甚大な被害を受ける。浅草など下町に集まる靴製造者、皮革関連企業も壊滅的状況となる。東京靴同業組合傘下の製造業者や小売店では、約千戸のうち400戸以上が被災し、うち約250戸が浅草・神田・日本橋に集中している。大手では日本製靴と大塚商店の被害が特に大きく、陸海軍への軍靴納入に支障をきたすほどであった。
震災からの復興は数年かかったが、以後、都市化が進み、通勤者が洋装化し、女性の社会進出と洋装も増える。国力・軍事力も増強され、靴需要は急激に伸びていく。