靴歴史エピソード  - 人と靴と出来事と -

靴歴史エピソード 人と靴と出来事と 軍需産業期/大正~昭和期

< 軍需産業期/大正~昭和期 > 編

文明開化の明治から、国力増強・経済発展・産業近代化の大正、そして昭和へ。都市の近代化、暮らしの洋風化が進む。一方で軍国主義と戦争が社会全体を覆い、靴産業は翻弄されていく。

靴歴史エピソード⑱
産業拡大の明暗
産業拡大の明暗

図左:第1回メーデー(1920年・上野公園)には皮革労働者、靴工も多数参加した(「皮革産業沿革史」より)
図右:大正期の最新スタイル(「靴産業百年史」より)

1900(明治40)年代から1920(大正10)年代にかけての約20年間で、靴生産額は約3倍に増えている(帝国統計年鑑)。その伸び率は一定ではなく、日露戦争、第1次世界大戦、ロシア革命(に伴う靴輸出)時に急増し、直後に急落、を繰り返しつつ産業は拡大した。結果、大正から昭和にかけて、体力のない企業は淘汰され、軍需メーカーを中心に再編合併が進む。皺寄せで靴工・労働者の工賃・労働条件などが悪化していく。そんな状況に、アメリカ帰りの靴工が日本初の労働運動・労働組合を組織化した産業の伝統が生き?軍需大手メーカーや大手皮革企業を中心に年中行事のように労働争議が起こっている。

とはいえ、軍需拡大の一方で、社会人・学生・子供靴を含めた民需も伸張する。その背景には、人々が個の人間性、民権意識を主張し、大衆社会を生み出した“大正デモクラシー”の波があった。工業化が進み、都市にはサラリーマンや職業婦人が増え、消費の大衆化、ラジオや映画などの娯楽・文化の広がり、衣食住すべての生活様式の洋風化が進んでいた。靴は時代の追い風を受けていた。

靴歴史エピソード⑲
靴クリーム発展史
靴クリーム発展史

松崎商店と“蜂印靴墨”のポスター(稲川實氏所蔵)

軍需の光と影

大正末~昭和初期の国産靴クリーム

大正末~昭和初期の国産靴クリーム

靴の広がりに伴い靴クリームが求められる。日本で初めて“靴墨”を製造販売したのは1887(明治20)年頃、浅草・駒形にあった松崎商店と言われている。これは使用後の炭をベースに作る文字通り“靴用の墨”的なものであって、クローム革の手入れには輸入靴クリームが用いられていた。本格的な国産靴クリームの開発・販売は明治末期、臼田化学工業所(1908年)と大洋商会(1910年)の2社が進めた。需要が高まるのは関東大震災以後、生活様式が洋風に大きく変化してからであった。なお、靴クリーム大手のコロンブスは臼田化学工業所、谷口化学(ライオン靴クリーム)は大洋商会の流れを引き継ぐ企業であり、サンエッチ、ジュエル、ライカなど靴クリーム企業の多くが大正末年に創業している。

靴歴史エピソード⑳
発明王・松田一郎
発明王・松田一郎

松田一郎と松田が戦後に開発した子宝式24足掛けロータリー加硫機械(「靴産業百年史」より)

関東大震災後、簡単な資材と工程でできる圧着式製靴機を考案し、昭和初期には事業化。1934(昭和9)年にはさらに進化した加硫式の製靴機械を完成させ、廉価で丈夫な子供靴などを大量生産し、国内はもとよりハワイ、中国、東南アジアにまで輸出した「子宝靴」が登場した。開発した松田一郎は“靴業界の発明王”と呼ばれ、100を超える製靴機械・技術に関する特許出願を行い、特許5・実用新案10を得ている。革靴とゴム靴の長所を取り入れた靴ができないか、誰でも履ける安くて履きやすい靴を大量に生産する方法はないか、と長年にわたり研究を重ねた成果であった。

松田の研究心は太平洋戦争後も衰えず、1957(昭和32)年には世界のインジェクション技術に先駆けて回転式自動底付け機を発明、実用化して年産40~50万足の工場設備を持ち、政府や東京都などから受勲・表彰を受けている。

靴歴史エピソード㉑
愛と憎しみの亜米利加
愛と憎しみの亜米利加

図左:新宿に開業したアメリカ屋靴店(同店50年史より)
図右:銀座に開業したワシントン靴店(同店提供)

昭和初期は、自動車や飛行機、映画やラジオ、ジャズやダンス、様々な20世紀的アイテムが広まり、都市化が進んだ時代。モボ・モガと呼ばれるおしゃれな男女、エロ・グロ・ナンセンスと称される享楽的刹那的な庶民文化が広まった。その底流にあるのがアメリカモダニズムだ。新しい技術やノウハウの多くもアメリカとの交流から得るようになった。1925年、新宿に開業したアメリカ屋靴店、1933年、銀座に開業したワシントン靴店、戦後の靴小売業界をリードする両店はその店名が示す通り、創業者がアメリカで商売修行をしたノウハウを生かして成功を収めた。

しかし、その真の成功は戦後になってから。両店の開業当時の世の中は、金融恐慌・世界恐慌を引き金に戦火のきな臭さが漂いはじめた頃、憧れの亜米利加はたちまち鬼畜米英となってしまった。

靴歴史エピソード㉒
「靴の記念日」制定
「靴の記念日」制定

図左:1931(昭和6)年に落成した
東京靴同業組合本部と組合旗
図右:伊勢勝造靴場跡に建てられた「靴業発祥の地」石碑

1909(明治42)年、日露戦争後の不況対策と産業振興を図るために製造販売を問わず業界横断の「東京靴同業組合」が設立された。同組合は太平洋戦争時の昭和18年に解散を余儀なくされるまで、統合団体として業界をリードした。

昭和初期、同組合は都内35支部・会員1600名を超す勢力になっていた(1932年)。大々的な商品見本市や製靴競技会の開催、販売キャンペーンなどを繰り広げ、靴の一般普及に力を注いだ。その一環であり、斯業の先人に敬慕・感謝の意を表す行事として「靴の記念日」の制定を立案、組合内外に広く意見を求めた。結果、先覚者・西村勝三が築地入舟町に「伊勢勝造靴場」を開いた1970(明治3)年3月15日を記念日とすることに決定した。

靴歴史エピソード㉓
和服に靴、洋服に下駄
和服に靴、洋服に下駄

図左:日本初のトーキー映画「マダムと女房」(1931年)は“和服に靴”キャンペーンの時代相を反映している
図右:漫画雑誌「バクショー」(1937年)に掲載された靴屋凋落、下駄隆盛の風刺漫画

1930(昭和5)年3月、東京靴同業組合が靴市場開拓のための初の革靴見本市を開催。業者向けの展示販売会だが、消費者への宣伝効果を意識したイベントも行われた。その一つが、第3回見本市の「和服に靴」のキャンペーン。唄(都都逸)と踊りも発表されたという。残念ながら写真は残っていないようだが、唄の一節は「お召の着物にキットの靴は、きっと似合うと主と洒落。景気回復百パーセント、靴屋は和服で靴をはけ」といったもの。ちょっと残念な感じで、靴の普及にどの程度効果があったかは不明だ。

同業組合見本市は年2回のペースで1937年まで続いたが、日華事変(日中戦争)を契機に、靴生産は軍靴にほぼ限られるようになり中止となる。同年、大蔵省が「洋服に下駄ばき登庁差支えなし」、東京府も中学生の「下駄ばき登校差支えなし」の通牒を出す。勢いを得た下駄業界は「洋服に下駄」のポスター、パンフレット、そして歌も作って宣伝に力を入れた。「非常時打破に服に下駄-----履けよ下駄、使えよ草履、国産品愛用、国のため-----天下御免の下駄と草履、カランコロンも資源愛護の良い響き」。

靴歴史エピソード㉔
統制社会の出現
統制社会の出現

“一億一心”で靴づくり──
国策雑誌「写真週報」昭和17年10月28日号に掲載された靴メーカー・千代田機械製靴(後のチヨダシューズ)

1931(昭和6)年の満州事変を端緒として、日中戦争から太平洋戦争へと15年戦争の時代に突入する。靴=軍需・軍靴であり、一般の靴=民需は厳しい制限、統制化に置かれた。1938年にはすべての製造業者に軍靴製造の協力要請があり、一方で民需の靴には牛・馬などの主要皮革の使用が禁止される。翌年には皮革統制会社が出来、靴の公定価格が決められる。締め付けは時を追うごとに強まり、犬・猫の皮まで統制品目となる。43年には、民間企業が革靴を作るのも、一般庶民が買うのも難しい状況になり、ついに東京靴同業組合も解散のやむなきに至る。すべての革靴が国家の統制下に置かれる非常事態の出現であった。

靴歴史エピソード㉕
海外進出、現地生産
海外進出、現地生産

図左:海外の戦地で靴製造・修理が行われていることを伝える雑誌記事。「写真週報」昭和15年3月13日号
図右:東亜製靴の株券(「大塚製靴百年史」より)

戦時体制が強まるにつれ大手機械靴メーカーを中心に軍需工場化していく。原皮・製革・副資材・製造加工・販売、すべてが国策統制機関の管理下に置かれ、ひたすら軍靴・軍需品を生産する。そして、軍隊の海外進出に合わせて、現地調達=海外生産が行われる。中国(上海・天津)、インドネシア、シンガポール、タイ、フィリピンなどに革靴メーカー、ゴム靴メーカー、タンナーや商社が工場を建設、稼働させた。満州・奉天には大手8社が出資する東亜製靴が設立され、同・ハルピンに分工場を建てるなどして年産60万足を目指した。

昭和初期(1920年代)には250万足程度だった革靴の年間生産足数は、挙国一致の軍事体制が強まり軍靴製造が急増する30年代には400~500万足に伸び、1942(昭和17)年には戦前最高の710万足強の生産足数となった。が、翌年からは500万足を下回り、物資不足・生産力低下はいかんともし難い状況となり、昭和20年8月の終戦を迎える。

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