靴歴史エピソード  - 人と靴と出来事と -

靴歴史エピソード 人と靴と出来事と 産業復興期/昭和20年代

< 産業復興期/昭和20年代 > 編

太平洋戦争が終った1945(昭和20)年は、製靴業が創始されてから75年目、靴産業150年のちょうど中間点にあたる。戦前の日本の靴(産業)は軍靴によって発達を促されてきたが、
そんな軍需の時代が暗転し、戦後は民需の時代に。平和産業・生活産業、そしてファッション産業・健康産業としての75年となっていく。

靴歴史エピソード㉗
産業復興を斯業の祖と共に
産業復興を斯業の祖と共に

図左:戦前の西村勝三の銅像
図右:戦後いち早く再建された西村勝三の石像

戦争が終わり平和な時代に。しかし、産業復活・生産再開を図ろうとしても、材料となる皮革は厳しい統制経済下で手に入らない。原皮の輸入も軍需物資の製造に繋がるとして禁止。一方で、旧軍の隠退蔵物資や米軍の払下げ軍靴が出回り、不正製造のヤミ靴が高値で販売されるようになっていった。靴業者は“割当て切符制の標準靴”という公定価格制度に沿った靴を細々と作るのみ。希望のない重苦しい状況であった。

そんな終戦直後の混乱期にあって印象的なのが、戦時中の金属回収令に従って軍需物資として国に献納した靴業の祖、西村勝三の銅像をいち早く再建したこと。銅材は統制物資で入手できないため、やむなく石像での再建だった。その石像除幕式が行われたのは1949年3月15日、勝三が日本初の靴工場を開設した日=靴の記念日であった。業界人の先覚者への敬意と産業復興への並々ならぬ思いが感じられる。

靴歴史エピソード㉘
GHQと統制の撤廃
GHQと統制の撤廃

図左:原皮輸入や統制撤廃を訴える全国大会(1949年)
図右:GHQ皮革担当官として活躍したモントゴメリー女史(前列中央)

GHQ(連合国軍総司令部)は1945年10月から52年4月まで、日本を占領統治した最高機関であり、天皇も政府も支配下に置いた。当然、皮革・靴の生産や価格の統制などの方針決定もGHQに委ねられた。原皮輸入の禁止、旧来の団体・組合の廃止、材料・製品の配給秩序回復と取締り強化など、当初は業界の停滞を招くような方針ばかりであった。度重なる要請、陳情も受け付けない。が、業界は体制を整え、陳情を繰り返す。社会がやや落ち着きを取り戻した48年頃から徐々に対応が変化、まず原皮の輸入が許可され、皮革・靴の価格と割当配給の統制撤廃が検討される。そして1950年、戦前の1938年から実施されてきたすべての統制が撤廃され、自由経済時代への第一歩を踏み出すことになる。

GHQの皮革担当官は前後3人いたが、47年4月から49年12月まで在任したモン(ト)ゴメリー女史の存在が大きいようだ。業界の行事への参加、企業の視察などしばしば行い、足入れの良い木型製作の勧告と日本人向けの靴の製作奨励など、業界史書に多く名前が残されている。

靴歴史エピソード㉙
業界団体・組合の再編
業界団体・組合の再編

様々な組合・団体が生まれ時代の荒波を乗り越えていった

戦後の混乱と統制経済下の割当て配給の受け皿として、戦前からの統制組合を解散・改編して皮革・革販・製靴・手工製靴・卸販売・子供靴など各分野ごとの組合が雨後のタケノコのように生まれた。ところが、48年にはGHQの指令によって全国的な統合団体はすべて閉鎖、改組される。さらに、50年の統制撤廃を受け組合団体の再編成が行われるという目まぐるしさの中で、産業は次第に民間靴製造産業としての体制を整えていく。平和の喜び、洋装化への期待、明日への希望、そして若いエネルギーが業界にみなぎっていた。

靴歴史エピソード㉚
製靴技術競技会と見本市
製靴技術競技会と見本市

コンクールや見本市が早くから開催され、産業復興と靴マーケット拡大を後押しした

1948年10月、戦後最初の製靴技術コンクールが行われた。まだ皮革統制が解除されてなく材料の入手も自由ではなかったが、戦時下10年のブランクを一日も早く取り戻し国際水準に追いつく技術を身に着けたいという業者の熱意が開催を後押しした。出品された靴は450足。並行して優良靴展示即売会も行い、来場者は3日間で5000人を数える大盛況であった。

コンクール優秀者の表彰式には商工省、都知事代理、業界団体長など70名が来賓として参加した。この成功の影響を受け、各地・各所で製靴競技会や展示販売会が次々に開かれるようになった。特に浅草では49年以降「靴と材料の見本市」「靴と付属の連合大市」「浅草見本市」「全靴見本市」などが開催され盛況であり、やがて本格的な靴見本市協会の結成と開催に繋がっていく。

靴歴史エピソード㉛
靴まつりイベントの勢い
靴まつりイベントの勢い

1951年から始まった「東京靴まつり」は様々なアイデアで靴のPRイベントを繰り広げた

明治以来の東京靴同業組合の流れを受け継ぐ東靴協会の創立は1949年11月。手縫い靴業者、製造小売業者、小売店・修理靴店などの多様な業者が1000以上集まる団体で、設立当初から活発な活動、特に消費者へのPRや販売に力を入れていた。

その代表的なイベントが「東京靴まつり」。メーカーの製靴技術コンクール、靴卸の見本市開催と連携して小売店頭でのPR活動を行った。豪華な賞品が当たる抽選サービス、都内各所での靴のショーや靴の女王コンテスト、街頭宣伝、交通機関の告知ポスター、アドバルーンやチンドン屋の動員など、当初からあの手この手であった。50年代60年代と靴需要が拡大し、靴まつりイベントは勢いを増す。自動車や旅行のプレゼント、テレビ宣伝、大劇場を借り切っての観劇会、ファッションショー開催、靴の歌のレコード発売──とどまることを知らないかのようであった。

靴歴史エピソード㉜
接着製法の登場
接着製法の登場

1950年代初期に流行した紳士・婦人靴

戦後復興の大きな要因となったのは1950~53年の朝鮮戦争による特需だ。軍靴・改造靴の大量の発注、皮革の注文も多く、これを契機に業界はうるおい、一般消費も回復していく。とはいえ以後の需要拡大をもたらしたのは民需、サラリーマン向けの紳士靴であり、洋装化と社会進出が急拡大し始めた女性向けの靴である。

軍需時代からの大手メーカー中心の紳士靴分野では、徐々に機械設備の整備を進め、技術改良と製品開発に力を注ぐ。51年には早くもアメリカの靴メーカーとの技術提携を行う企業が現れ、各社とも欧米先進企業からの技術・情報収集に努めた。中小企業の多い婦人靴分野では組合単位や地域ネットワークを活用して商品開発や市場開拓を行っていく。1950年代に入り、高品質の接着剤や合成底の開発とそれを活用する製靴機械が広まるに従い、紳士・婦人靴共に良質の靴の大量生産が可能になり、高度成長期を迎える。

靴歴史エピソード㉝
ファッション化の始まり
ファッション化の始まり

図左:百貨店の屋上で行われたファッションショー(1954年、銀座)
図右:スクリーンファッションにあこがれる女性が多かった(1954年、上野)

靴の生産は、統制解除から2年後の52年には戦前の水準まで回復している。その最大の要因は婦人靴の増大。ファッション化の浸透である。パリモードのニュースは早くから雑誌などで紹介され、憧れのディオール製品は見果てぬ夢であっても、洋裁学校などで模倣・再生された。百貨店などではファッションショーが開かれ、娯楽の王座にあった映画ではハリウッドやヨーロッパの女優のスクリーンファッションに心を奪われた。50年のヒット映画「赤い靴」に登場する靴はバレエのトウシューズだったが、銀座など繁華街の靴店のウインドーには赤いハイヒールが飾られ、飛ぶように売れたといわれる。時代は下るが、「麗しのサブリナ」のサブリナシューズ、ヘップサンダル、モンローのハイヒールなど映画がベースのヒット商品は数多く生まれた。

ファッション化は多品種少量生産、百貨店や婦人靴専門店の台頭、さらにはチェーン店の拡大、ブランド展開の一般化など、高度成長期以降の市場変化を方向づける大きな要素となっていく。

Shoe Shoe HistoryShoe Shoe History Shoe Shoe CultureShoe Shoe Culture Shoe Shoe EventShoe Shoe Event