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靴歴史エピソード 人と靴と出来事と 高度成長期/1955~1970年

< 高度成長期/1955~1970年 > 編

1955(昭和30)年から60年代にかけて、世の中は神武景気、岩戸景気、所得倍増計画に沸き、高度経済成長時代に突入する。その勢いは東京オリンピック(64年)を経てイザナギ景気、大阪万博(70年)まで衰えず、靴産業もその時代の波に乗り機械化近代化を進め、成長拡大していく。

靴歴史エピソード㉞
アメリカ靴産業の視察と成果

アメリカ靴産業の視察と成果
アメリカ靴産業の視察と成果

上図左:初のアメリカ靴産業視察団に選ばれた11人
上図右:ゼネラルシュー社を訪問した視察団一行
下図左:業界紙は視察団出発をトップニュースで報じた
下図右:視察団の報告レポート「靴」は
業界近代化の指針となった

戦後10年、世界的に経済復興、工業の近代化が進んでいった。靴産業でも日本生産性本部の推薦のもとでアメリカの靴産業・先進企業を視察する「日本製靴業生産性視察団」を派遣することになった。当時の日本を代表する大手靴メーカーの11名が、1955年11月から6週間にわたって北米7都市をめぐり15の靴工場、機械・木型・薬品・販売会社など15社、3つの業界団体を訪問視察した。

帰国後、一行は業界への提言を盛り込んだ報告書を発表する。最新の機械導入など設備投資の必要性、皮革開発の促進と規格化・標準化、副資材開発の重要性、試験研究機関の組織化、労務管理の見直し、流通機構の整備確立、商品開発と需要開拓のための宣伝活動の推進など、大要8項目の提案であった。この報告書は業界全体に大きな影響を与え、その後の業界の在り方を方向づけ、発展をもたらした。そして、視察団に参加した8企業は率先して視察体験・知識をその経営に生かした結果、帰国後の3年間で生産数量60%、従業員数33%、平均賃金20%アップという成果を上げたという。

靴歴史エピソード㉟
靴の街・浅草の躍進
靴の街・浅草の躍進

図左:東都製靴協同組合の拠点、東都靴会館
図右:1958(昭和33)年の産業状況を伝える業界紙

浅草の靴づくりは明治初めの産業創成期と共に始まり、大正末期から昭和にかけて都市化、一般市民の洋装化が広がった時期に発展した。そして戦後、婦人靴の需要が高まり、接着製法が一般化するのに伴いメーカー数も生産高も急増する。終戦直後の1947年に設立した浅草地区を中心とした靴メーカー団体、東都製靴協同組合は当初100名足らずの会員だったが、55年には200名を超すまでになり、その後も発展を続け靴の街・浅草の屋台骨を支えていった。60年代には、業界をリードする活発な事業活動が認められ、東京都や労働省から「優秀モデル組合」の表彰を受けている。

産地・浅草の特色は、個人営業を含め小規模メーカーが多く、婦人靴メーカーが60%を超える。使用材料が少なく、設備投資も軽いが、デザイン変化と多品種少量生産が求められる婦人靴製造に適した産地である。町全体に皮革などの材料関係、各種加工所、機械・道具・靴函など関連企業が集積しコンビナート化しているのは今も変わらぬ大きな強みだ。

靴歴史エピソード㊱
国際舞台へアプローチ
国際舞台へアプローチ

図左:日本からの視察団歓迎を報じたイタリアの新聞
図中央:60年代初めに浅草の靴メーカー協会が
発行していたハイレベルなPR誌
図右:66年、ドイツ・ハンブルグの
国際見本市出展時の日本メーカー紹介カタログ

55年のアメリカ靴産業視察に続き、57年にはイタリア大使館の招きで日本靴連盟役員が渡欧、59年にはアメリカ農務省の招待を受け訪米皮革使節団が原皮産業視察を行った。同じ頃、浅草の靴メーカー団体もアメリカの婦人靴工場の視察を行い、その後も、グループや個人で欧米の産地・企業を訪問し、生産技術などを積極的に導入して産業の進歩発展を加速化させていった。当時はまだ海外渡航は規制されていて(ビジネス渡航の自由化:63年、観光旅行:64年)、多くの手続きと許可が必要であり、外貨の持ち出しも制限されていた。渡航者数は60年で年間12万人、自由化後の70年でも93万人という時代である。そんな規制を乗り越える産業の勢いと、靴に対する官民挙げての期待が、時代を先取りする海外渡航熱を生み出していた。

60年代には、海外見本市への出展、アメリカやソ連などへの靴輸出も盛んに行われた。

靴歴史エピソード㊲
技術提携やライセンス契約
技術提携やライセンス契約
技術提携やライセンス契約

上図左:米・ブラウンシューと「リーガル」ブランド契約を結ぶ日本製靴(現リーガルコーポレーション)役員
上図右:「リーガル」は60年代半ばから大ヒット、70年には直営1号店を東京・八重洲にオープン
下図左:大塚製靴は「ハッシュパピー」展開のためにパピーシューズを設立
下図右:婦人靴メーカーも技術提携、ライセンス契約に力を入れた

60年代に入り、靴の需要が大きく伸び、ファッション化が進み、新たな消費が次々に生まれる時代を背景に、大手・有力メーカーの間に欧米の靴企業との技術提携やブランドライセンス契約が盛んになる。60年・マレリー(ユニオン製靴)、61年・リーガル(日本製靴)、65年・ハッシュパピー(大塚製靴)、67年・ピエール・カルダン(スタンダード靴)、68年・シャルル・ジョルダン(リリー製靴)──次々とヒットし、躍進する企業とマーケットのさらなる拡大を生み出した。そして、業界の欧米信仰(イタリア、フランス崇拝)、ブランド熱、フランチャイズなどのショップ展開、製販系列化など新たなビジネス変革をもたらすことになった。

靴歴史エピソード㊳
見本市の拡大・乱立・統合
見本市の拡大・乱立・統合

図左:大手町の産業会館で開催された革製協見本市
図中央:浅草の体育館で開催されたシューセンター見本市
図右:69年に完成した産業会館台東館はその後、靴見本市のメッカとなった

1955年、その前年に完成した大手町の産業会館を会場に靴・鞄などを集めた東京都革製品綜合見本市(革製協見本市)が開催された。拡大するマーケットと発展する業界をさらに活性化するビジネス拠点である。同時期に浅草では靴卸を中心とした浅草シューセンター見本市が開かれ、共に100社規模の出展社、来場者は5千人規模、60年代には1万人を超すほどのビッグイベントとなって行った。このほかにも60年代後半には、東京都内だけで20に近い見本市・グループ展示会団体が出現、見本市の乱立・過密状態を招いた。それだけ爆発的に需要が拡大したわけではあるが、さすがに出展サイド仕入れサイド共にロスの大きさが問題になる。

1969年、浅草に産業会館(台東館)が建設され、これを機に革製協など有力見本市3団体を統合する東京靴見本市協会(靴見協)が誕生し、翌年から東京シューフェアが開催され、 見本市の乱立問題は一応の解決を見る。

靴歴史エピソード㊴
流通革命と靴業界
流通革命と靴業界

図左:気鋭の経済学者、林周二が理論化した「流通革命」は大量生産大量消費の時代の流通業に大きな影響を与えた
図右:64年、銀座にオープンしたワシントン靴店本店は高層・大型の靴専門店として話題となった
(写真は70年代の歩行者天国の銀座通り)

高度成長は中間層の増大と家電などの消費ブームの引き金となり、大量生産と大量消費の時代を招いた。62年には、産業構造や流通システムを革新する「流通革命」が提唱され、様々な業界で話題になった。靴業界では、小売店の多店舗化への模索が始まり、いわゆる支店経営ではなく、アメリカ型のチェーンオペレーションに基づく出店がみられるようになった。10店舗以上のチェーン化を早々に行う店が次々現れ、銀座のど真ん中に世界一規模の大型店を建て話題を集めた靴店もあった。また、急拡大するスーパーマーケットでも靴販売・靴小売店を展開するようになり、専門店・百貨店・量販店、三つ巴の販売合戦がさらなる靴消費の拡大に繋がった。

また、紳士靴分野では大手メーカーによる販売店の系列化も進められたが、「流通革命」と同時に叫ばれた問屋無用論は、多品種少量・サイズ在庫必須の婦人靴分野では特に浸透しなかった。というより、70年代にかけて、靴業界ではむしろ問屋主導の時代になっていく。

靴歴史エピソード㊵
「靴まつり」と小売業の盛衰
「靴まつり」と小売業の盛衰

図左:銀座ヤマハホールで開催された
ミスシューズ・コンテスト
図右:60年代の靴まつりは、銀座、新宿、上野、池袋、
都内各所でにぎやかに行われた

1958(昭和33)年、都内の靴小売業者の団体・東靴協会の会員数は1992名に

増大した。63年には地下2階・地上7階建ての組合ビルを建設、景気拡大・消費ブームを背景に活発な販売促進や靴のPR活動を行っている。代表的なものが「靴まつり」。シンデレラ姫の街頭パレード、手縫い靴コンクール(56年)、ミスシューズ・コンテスト、靴の名人表彰(59年)、用途別デザインコンクール、オリンピック振興セール(61年)、第1回人工皮革まつり併催(66年)といった多彩なイベントを実施、販売セールの副賞もテレビ、自動車、劇場・旅行招待など豪華なものであった。

その一方で、有力店のチェーン化や大型量販店の進出、靴は履き捨てという風潮も生まれ、零細小売店や製造小売店の転廃業も増えていった。55年当時、隆盛を誇っていた下駄業界がその10年後には業界崩壊、そんな急激な変化が起きる時代であった。

靴歴史エピソード㊶
ブーツとミニと若者文化
ブーツとミニと若者文化

図左:アイビールック流行と共にヒットした「VANリーガル」
図右:ミニとブーツは社会現象と言われるほどの大ヒットし、一般化していく

60年代は若者文化が台頭した時代。63年にはアイビールックが流行り、靴では「VANリーガル」がヒットする。65年にはミニスカートが登場し、翌年には日本でも大旋風を巻き起こす。ビートルズやグループサウンズが鳴り響き、アングラ、ヒッピー、ポップアートが話題となる。ファッションではモッズルック、パンタロン、フォークロアなどが次々に登場する。そして、靴ではレディスブーツが社会的な話題になるほどの大ホームラン商品、ロングランヒット商品となった。さらに、パンタロンやフォークロアに会う厚底のサンダルやブーツも飛ぶように売れ、まさに作れば売れる靴産業の黄金時代であった。

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