靴歴史エピソード - 人と靴と出来事と -
< 産業変革期/1970~1990年 > 編
1970(昭和45)年、靴産業は創設100周年を迎えた。ここから86年の皮革・革靴の輸入関税割当制(TQ制)移行、およびバブル経済崩壊の90年代初めまでが産業の成熟期であり、同時に、業界内外の様々な事象の影響を受け、産業の変革を促す起点となる時期である。
日本の靴産業100年
図左:盛大に行われた靴産業百年記念式典
図右:3年がかりで編纂された「靴産業百年史」
大阪万博が開かれ、ブーツブームが続き、世の中全体も靴産業も大量生産大量販売で沸き立つ1970年3月、靴産業は創設100周年を迎えた。翌71年3月には帝国ホテルにおいて盛大な記念式典が挙行され、同時に3年がかりで編纂した「靴産業百年史」を発行した。前後して企業の拡大、設備投資、団体の動きなども活発化し、70年には皮革材料の総合見本市・東京レザーフェアが開催され、71年には見本市3団体を統合して東京靴見本市協会(東京シューフェア)が発足する。
ファッションの黄金時代
図左:70年代に創刊・発行されたファッション誌
図中央:70年代全般をリードしたルーズフィットブーツ
図右:70年代中盤をリードしたニュートラパンプス
70年の「アンアン」を皮切りに「ノンノ」「流行通信」「JJ」「ポパイ」「モア」などの雑誌が次々に創刊され、ファッションの多様化が進んでいった。戦後生まれが人口の半数を突破し、ニューファミリー、OL&女子大生がファッション消費をリードするようになる。ミニスカート、パンタロン、ビッグファッション、ジーンズルック、フォークロア、ニュートラ、ハマトラ、サーファー、と次々に新しいスタイルが打ち出され広まっていった。
靴ではブーツが引き続きヒット。はじめはロングのルーズフィット、後半にはハーフやショートが流行した。ビッグファッションに合わせ、ボリュームのある厚底のブーツ、サンダルも、紳士靴の厚底物と並び70年代前半を彩った。中盤からはニュートラの金具付きパンプス、カッター、ジュート巻ウエッジ、マニッシュなどが流行した。日常履きとしてのピンヒールヘップ(ミュール)やスニーカーのヒットも業界的話題だった。
急成長の光と影
図左:アメリカ屋靴店50年誌
図右:チヨダの郊外店、靴流通センター
60年代に始まった有力店のチェーン化や量販店の進出は、70年代に入り加速度を増していく。アメリカ屋靴店が72年には年商100億円を突破、積極的に郊外型店舗を展開し始めたチヨダ靴店は74年に100店舗展開を達成する。チヨダはその後も郊外店を中心に店舗拡大を図り、85年には株式上場、89年には1000店舗展開を果たす。他の有力店も当然のように多店舗化に拍車がかかる。その背景には車社会の出現、ロードサイド型商業施設の建設ラッシュ、一億総中流社会化によるベター消費の拡大などがある。そして、有力企業や新市場の拡大の反面で、旧商店街の凋落、個人商店の転廃業、在庫ロスの拡大も生んでいく。
また、異業種からの靴分野への参入も始まり、産業内のビジネス競争も徐々に熾烈になる。マーケット規模も飽和点に近づき、上場する企業もあれば有力企業・老舗企業の倒産も目立つようになる。産業変革が迫られていた。
企画問屋の登場と躍進
図左:デザイナー、高田喜佐と熊谷登喜夫の靴
図右:靴のDCブランドを発信した企画問屋のDM
80年代はファッションの高度化・成熟化が進んだ時代。パリコレや東京コレクションが注目されDCブランドが一大ブームとなった。靴でも、女性デザイナーの先駆けとなった高田喜佐が脚光を浴び、パリでは熊谷登喜夫がデビューを果たした。そして、企画問屋と総称された新進企業と若手デザイナーが打ち出すDCブランドが拡大していく。卑弥呼、モード・エ・ジャコモ、ラボキゴシ、クロスロードなどを筆頭に40~50を超える企業が原宿・青山、そして浅草から個性あふれるジャパニーズシューズを発信していった。企画問屋の登場により、産業構造は製造主導型から流通主導型へ、そしてモノ型から情報型へと変化していった。
TQ制と国際化の進展
図左:東京シューフェアに出展した海外メーカー
図右:輸入靴を特集した雑誌が増えていった
80年代におけるエポックメーキングな出来事は、86年の皮革・革靴の輸入関税割当制(TQ制)への移行だ。国内産業保護の名目で制限されていた皮革・革靴の輸入が、世界的な自由貿易の流れの中で、欧米諸国からの自由化要求が高まり制限を廃止、関税処置によって輸入を抑制する関税割当制に移行し、基本的に自由化の道を歩み始めた。東京シューフェアにイタリア、ドイツなどの海外メーカーが出展し始め、次いで、各国の靴工業会単位で展示会を開催するようになっていく。
TQ制への移行によって、それまで高級品に限られていた輸入靴市場の裾野は格段に広がる。90年代には輸入カジュアル靴ブームを招き、2000年以降はファストファッションブーム、中国やアセアン諸国とのサプライチェーン化の進展に伴い急激に輸入数量を伸ばしている。
足と健康への関心
図左:シューフィッター養成講座の光景
図右:足と健康に関連する書籍や雑誌が急激に増えた
ファッション爛熟の一方で、90年代に近付くにつれ、消費者の間では足と健康への関心が高まっていく。社会的な健康志向の反映であり、女性の靴着用時間が長くなったことなどが背景にある。直接的な引き金となったのが、84年に日本靴総合研究会(現・足と靴と健康協議会)が出版した「痛い靴はもうはかない」であり、85年に同会がスタートさせたシューフィッタ―養成講座だ。以後、足に合う靴を選ぶことの大切さ、フィッテイング技術の向上、健康志向の靴の開発が一般化していく。そして、87年には日本靴医学会の設立。90年代に入ると整形靴(整形外科的処方を加えた靴)や、その製作技術者への注目に発展。2001年には、整形靴技術者の国際的な団体であるIVOに加盟する日本整形靴協会が設立され、03年にはIVO世界大会が日本で開催されるまでになった。